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リュッツォウ義勇部隊(独:)は、1813年から1814年の解放戦争における、プロイセン軍の義勇部隊である。 その指揮官はルートヴィヒ・アドルフ・ヴィルヘルム・フォン・リュッツォウ少佐であった。 ==隊史== 1813年から1814年にかけての冬、ナポレオンのロシア遠征が惨憺たる結果に終わると、プロイセン王国では状況が一変し、強制の下で結ばれたナポレオンとの同盟は破棄へと転じていく。 宮廷ではプロイセンの陣営転換の準備が進められた。1810年からベルリンで体操や水泳教育を促進し、秘密結社のドイツ同盟を結成していたフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンとフリードリヒ・フリーゼンは宰相のハルデンベルクに、全てのドイツ諸邦から参じた志願兵が、ナポレオンと戦うための義勇軍を募るよう迫る。 この時、そのような部隊の創設が合意されたと見られる。なぜなら国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世がゲルハルト・フォン・シャルンホルスト少将から内密に、またリュッツォウ少佐から正式に、本人を指揮官とする義勇部隊の創設を請願される前の1813年1月29日、ヤーンとフリーゼンはブレスラウの集合場所に到着していたからである。同地で彼らは志願兵を募り、予期される人々の殺到に備えて全ての準備を整えていた。リュッツォウの部隊は1813年2月に公式の承認の下、プロイセンの正規部隊として「王立プロイセン義勇部隊」(Königlich Preußisches Freikorps)と名付けられ、創設された。 同隊、またこれに続く義勇部隊創設の法的根拠となったのは、義勇猟兵部隊の設立に関する1813年2月3日の最高内閣令である。リュッツォウの部隊の通称、「リュッツォウアー」や「黒の猟兵」もここに由来するものの、同隊の内、実際の猟兵の数は少なかった。 1813年6月5日に発効した休戦協定が、リュッツォウの耳に届いたのは6月9日であった。彼はこの時、総勢400名の歩兵と騎兵を率いて敵の戦線の後方、プラウエン近郊に居た。協定の条件に従い、3日以内にそこから退去するのを躊躇い、彼は部下とともにライプツィヒ方面に向かう。フランソワ・フルニエ=サルロヴェーズ将軍指揮下の、数の上で優勢なフランス軍およびヴュルテンベルク軍騎兵がキッツェンで行く手を阻み、1813年6月17日に警告なく来襲した。リュッツォウの騎兵の一部は殺戮されたが、歩兵の大部分は逃れる。 およそ150名の「リュッツォウアー」が捕えられるが、捕虜として扱われず、フランス軍からは「黒い盗賊」(bandits noirs)と見なされた。リュッツォウと副官のテオドール・ケルナーは重傷を負い、ようやくのことで逃げ延びている〔1894年発行のGroßer Brockhaus、 ヴェルナー・ヘーゲマンによって引用。P. 179。〕。続いてザクセン(特にフォークトラント、)テューリンゲン、バイエルンを襲撃した後、部隊は1813年の「秋の遠征」に参加し、エルベ川を下流に向かって進み、コサックとともにブレーメンを制圧した。 しかしフランスの援軍が接近すると、その町からの迅速な撤収を強いられている。その後は、ほとんどコサックとともにヴェストファーレン、シュレースヴィヒ=ホルシュタインおよびライン川付近を転戦した。騎兵の一部は1814年初頭、ネーデルラントやフランス北東に投入されている。それに先立つ1813年8月、テオドール・ケルナーはメクレンブルクのガーデブッシュにおける戦闘で、フリードリヒ・フリーゼンは1814年3月にアルデンヌで没した。 1814年、連合軍がパリに入城しナポレオンが退位すると、プロイセン国外からの志願兵は解雇され、残存兵力から第25歩兵連隊と第6ウーラン連隊が創設された。そして1815年3月、ナポレオンが追放先から帰還すると、かつて「リュッツォウアー」であったこれらの連隊も再び動員される。リュッツォウは第6ウーラン連隊の指揮官として同年6月15日、リニーの戦いで重傷を負い、捕虜となった。どちらの連隊も6月18日、ナポレオンの最終的な敗北に繋がったワーテルローの戦いに参加している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リュッツォウ義勇部隊 (解放戦争)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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